春から梅雨にカケて

 

五月晴れ。

不意に見上げた空が青かったときの高揚は、「心地よい」などといった穏やかな形容からは程遠く、血がたぎるような喜びというのが相応しい。浮かれ気分で路傍に咲くタンポポに声をあげると、隣にいた友人に「小学生か」と笑われ、なるほどそういうものかと心得る。しかしそれにしても大学のキャンパスには色々な植物があるし、木はでかすぎて笑いそうになる。

こうして書いてみると嘘のようだが本当に誇張ではなくて、 家に籠りがちな日常とのコントラストでそうなってしまうのである。

五月に照らされる自分がいる限り、それを写しとる影もまた避け難くあるわけで、春の高揚は根底にある渇きを表裏一体に証立てる。

しかしそれを端的に悪として押し込めたくはないという話。

 


✴︎

 


元飼い犬が夢に出てきた日はどう頑張っても調子が出ない。寂しさなのか悲しさなのか、あるいは後悔や自責なのか、自分の中を探ることさえ恐ろしい。数えてみれば2年が経とうとしている。

形見はずっと机に置いてあるし、ツイッターでもラインでもアイコンは黒柴のままだ。毎日欠かすことなく目にしている。それは実のところ、忘れられないという気持ちよりも、それをやめてしまうことが何かに背くことを意味するのではないかという恐れであるのかもしれない。いや、たしかに愛しいからなのだが。しかしそれでいて家族がする犬の話は苦しく、帰省しても線香をあげることができない。そこには直視できない何かがある。

それは説明することが難しい。そこに何か言葉を充てがえば、むしろそのことが現実の方を歪めてしまうように思う。何でも明晰に言語化できるというのは人間の、あるいは言語の驕りに違いない。言葉にすることで心の整理がつくということはたしかにしばしばあるけれど、全てがそうではないしそれは何らかの能力の欠如を意味しない。それは単に現在という一点の心情などではなく、十年越しの蓄積であり、言葉にされては堪らない歴史であるのだから。

たとえ説明できずとも、捉えどころのないものとして、たしかに自分のもとに在る。実際それが意味のある形で折に触れて浮かび上がってくるということは、ある特定の様態を持ったものとして自分に現れているということなのだ。それをそのまま受け取るのでもいいのではないだろうか。変に言葉を充てがうくらいならば。なんだかそういう気がしてきた。「もういない」という「在り方」で、何らかの形のもとそばに居続けるのだ。

部活も卒論も院試もいろんなものが差し迫っているので、昔を思い出して調子が出ないなどと言っている暇はないのだが、自分の歴史から析出した不調を対症的に押し込められることが「健康」や「メンタルの強さ」と呼ばれるならば、そんなものクソほどつまらないなと思う。まだまだ尖りたいお年頃。 

自分自身との、あるいはそれを取り巻く世界との摩擦はあった方が好ましい。事は滑らかに運ばないけれど、摩擦のもとでこそ改めて自分の輪郭が浮かび上がる。

相変わらずあり得たものがすぐ横を通りすぎて行ってしまうような日々を重ねているが、そしてそれに対してやりきれない気持ちを抱いているが、それはまさに「やりきれない」のだからやりきる必要はない。そのやりきれなさが表裏一体に証示する歴史をそのまま穢さず残したい。そこでは「やりきれない」という言葉すら安い。それは乗り越えるべき壁として表象されるべきものではなく、自分を内から形作るものに違いない。

 


✴︎

 


久々に熱いんだか湿っぽいんだかわからないものを書いてしまった。

春が露わにした渇きが今後どうなることやら。明日の天気すら把握していない僕に、それ以上先のことなど露ほども知られることはない。

三回忌を迎えるのは夏の真っ只中、何となくだが晴れているといいなと思う