そのときはそのとき

 

最近はえらくお気楽に生きていることに気がついた。全てのことはなるようになるし、どうにもならなかったらそのときはそのとき、といった具合に。およそこのままではどうにもならない未来のほうが近いのだが、それはそれで「人間」という感じがしてよいとすら思っている。

おそらく去年の中頃からこんな感じなのだけど、その前までは真反対の心持ちで過ごしていたような気がする。しかしそこで起こったことはパタっと矢印がひっくり返るような転換ではなくて、むしろ地続きの必然的な成り行きだった。一方向に真っ直ぐ進んでいるのだけど、それが極まってくると背景の方が反転しまった、というような。

 

全ての根は「望んで生まれてきたわけじゃないのにどうしてあと数十年も生きなきゃいかんのだ、面倒だ」というところにある。将来を考え始めた高校生の頃に感じるようになって、大学に入ってからも根底にあり続けたもの。この途方もない理不尽といかに対峙するか。

「そんな面倒なこと考えずに真面目に生きろ」というのは尤もな意見であって、あるいは正攻法ですらある。なぜなら生まれてしまった過去は変えられないのだから、何を考えたって仕方がない。そんな理不尽には真正面から対峙しない方がいい。何かしら目的を見つけて面倒だと感じなくすること、理不尽を理不尽ではなくすこと。背を向けるという正攻法。

しかしまあそこを上手くできずに悲観的になってしまったのであった。悲観的というより無気力だろうか。納得できないままでは歩き出す気も起きないのだ。

 

ところで先から話題にしている理不尽はどのような意味で理不尽なのか。

「望んで」生まれたわけじゃないのに何故生きなきゃ「いけない」のか。これは自由意志と責任についての考えに関わっている。一般に「自分の意志で行ったことについては責任を負わなければならない」と考えられているし、社会の制度もそのようにできている。そこでは「自己統制的・理性的な行為主体」という主体観が前提にある。理性的に思考する能力があって、自分のことは自分で決められるのだから行為には責任を持ってねということであり、逆にそうした能力が欠如している場合には例えば責任能力がないとして刑罰に値しないとされたりするのである。

したがって問題となっている理不尽は、生まれてきたことは自分の自由意志によるものではないのだから生きる責任はないのではないか、それなのに生きなきゃいけないのは理不尽ではないか、ということである(別に生きなきゃいけないことなんてないでしょ、というのはあり得る意見だが、社会通念として死ぬより生きるほうがよいとされていることはあらゆるところに表れているし、個人の視点でも気づいたときには死ねない理由ができてしまっているものである)。

 

ではそもそも「自己統制的・理性的な行為主体」という前提は妥当なものか。

おそらく全く間違いであるわけではないが、人間の能動的な側面を強調しすぎているだろう。人はいろんな次元で受動的な在り方をしているように思う。それは生まれたという事実そのものや、どのような時代や環境に生まれ、生きていくかという広い意味に限らない。日常的な行為について考えてみても、行為の結果については偶然や運が必ず絡んでくるし、そもそも自分で生み出したと考えている意志でさえ外部の影響を受けていないということは決してない。思っている以上に、自分のことの中には自分ではどうにもならない領域がある。そういう受動的、偶然的な要素がある。

それらどうにもならないことも含めて自分として引き受けることの中にこそ、かろうじて生きがいのようなものを見出せるのだとは思うが、ここでは一旦主体観の話に戻る。要するに、自己統制的・理性的な行為主体という前提は、実際の人間の在り方よりも強い人間像を提示しているし、また社会のシステムからして我々(少なくともかつての僕)の認識に刷り込まれている。その結果、自分のことを実際よりも強いと勘違いしてしまうことで、弱さの現実に直面したときに(例えば自分で選択したわけでもないのに生まれてきてしまった事実を痛感したときに)それを理不尽だと感じてしまう。しかし実際のところは、本来的に受動的で弱い存在なのではないかと思うわけである。

 

ここまで至ると、行く先は二つ思い浮かぶ。

ひとつは、そんな本来的に弱い存在である人間として生まれてしまったことを、より一層悲嘆することである。理不尽だと思って悲観していたところに、「人間もともとそんなもんだよ」と言われても、結局のところ「理不尽」が「元来の弱さ」に姿を変えただけでマイナスなことには変わらないじゃないか、という感じ。

しかし何故だか僕が進んだのはもうひとつの、「それならまあしゃあないか」という方だった。大抵のことは思いのままにならないならまあ仕方ないし、それならいろんなことに責任を感じすぎることもないよな、とかえって気が楽になった。

 

もちろんこれは、いろんなことの責任を放棄したり、投げやりに生きたりすることではない。

一般に責任を問われるようなことには応じなければならない。それらを「元を辿れば僕の意志じゃくなくて偶然的な要素のせいだし」と拒否してしまえば、自分のうちには実質的なものは何も残らないだろうから。受動的、偶然的な要素は自分から切り離すべき外部ではなく、自分を構成するものだ。強いていうなら、気持ちのうえでは以前よりも自分のことを責めすぎるようなことはないし楽にはなっているだろう(人を慰めるときに「お前のせいじゃないよ」というセリフがよく聞かれるように、およそ人は自分を責めやすい傾向にあるのかもしれない)。

あるいは大抵のことはなるようにしかならないのだからといって何ら努力をしないわけでもない。なぜならどこまでが受動的、偶然的な要素で、どこからが能動的、意志的な要素なのかをはっきりと判別することはできないから。何かが上手くいかなかったときに「まあ仕方ない、そういうものだ」と受け入れるためには、少なくとも自分でどうにかできると思われる範疇においてはできることはやったと思えなくてはいけないから(たしか納会でした話もこんな感じだった)。

 

あとこれは少し違う話だけれど、過去のことについて実際にそうなったのであれば、それ以外のことにはなり得なかったと思っている節もある。これは根拠があるというよりも直感なのかもしれない。例えば何かが失敗したときに、「成功することもできた」というのは理論的な可能性として想像することはできるけれど、しかし現に失敗したのであれば、現実的に実現されうる可能性としては失敗しかなかったのだ、という風に。だから過去の失敗から学ぶことはあっても、「こうしておけばよかった」みたいな後悔は生じえない(なぜならそうしておくことはそのときの自分には不可能だったから)。

 

さて、こんな具合に呑気に構えるようになってからの僕が「望んで生まれたわけじゃないのに何故生きなきゃいかんのか」という問いに対してさしあたり暫定的に出した答えは以下のようになる。

第一に、それは理不尽というよりは元々そういうものとしか言えないことであって、少なくとも「理」という意味において納得できないことはない。第二に、じゃあまあ一応そういうものとして受け入れるとしても依然として残る「生まれてしまった」という重い事実にどう向き合うかと言えば、上に書いたようにとりあえずラフに構えておくということである。これくらいの気構えでいいなら、とりあえず今はまだ生きててもいいなというくらい。

もしかするといまいち釈然としない人もいるかもしれないが、僕もそうである。まあ仕方ないか、では割り切れないような状況に遭遇したことがないからこれだけ呑気でいられるというのは間違いなくある。これが現時点での限界である。

まあ仕方ないかで済ませられないことが起きたとしたら、そこでようやく僕の中で何かがスタートするのかもしれない。これだけの前提を敷いてもなお納得できないのだとすれば、それは人生を賭して戦うべきことであり、いわゆる生きがいなのだろうから。そのときにはまた問いの答えも変わってくるだろう。あるいは生き方の選択そのものが問いへの答えになるような、そんな生に肉薄した問いが残り続ける限りそれ自体が生きがいになるのかもしれない。


まあ何にせよ、そのときはそのときである。